ダム湖の少女
ぼくはこのゴールデンウィークに、久し振りに故郷に帰ることにした。高校を卒業して以来、5年振りになる。
故郷は四方を山に囲まれた山村にあり、その村の北側にあるひなびた集落だ。民家も30件ほどしかなく、その数は今はもっと少なくなっている。その集落に行く唯一の交通手段は自動車しかないため、白いカローラのレンタカーを借りて帰ることにした。
故郷につくと昔とはなんら変わらない風景に胸が熱くなった。道路沿いに続く沢、ヒグラシの声、空を舞うトビの群れ、昔は見慣れた風景も、都会での生活が続いていたのでとても新鮮に感じた。
集落入ると、農作業の昼休みに家に帰る人たちと出会った。
「あれ、よっちゃんじゃないの、大きくなったねえ」
「あ、おひさしぶりです」
集落の中ですれ違う人たちはみんなぼくに声を掛けてくれた。狭い集落なのでぼくが誰なのかすぐに分かるらしい。村全体が温かく迎えてくれているようで、都会から4時間かけて走ってきた疲れも忘れてしまった。
ぼくの今回の帰郷の目的は休息以外にもあった。それは初恋の子がどうしてるのか気になっていたのだった。初恋といっても8歳のころのこと。
当時はこの集落にも子供が沢山いて、みんなでかくれんぼや缶蹴りなどをしたものだった。男の子と女の子はいつも別々で遊んでいた。ぼくはいつも同年ぐらいの男の子5人で遊んでいた。増え鬼という遊びをよくやった。増え鬼とは鬼につかまった人は鬼の仲間になり、鬼同士は手をつないで鬼でない人を取り囲むように追いかけ、どんどん鬼を増やしていくと言う遊びである。
そのような遊びを男の子同士でしていたが、時々、ぼくたち男の子の中に女の子が一人だけ混じっていた。女の子は5歳くらいで、赤い服を着ていてサンダルを履いていて、少しぽちゃっとした顔に細い髪の毛を肩まで垂らしたかわいい子だった。女の子はいつもニコニコしながら「あたしもいれて」と遊びの中に入ってきた。サンダルを履いているのにとてもちょこまかしていて、短めの赤いスカートを風にたなびかせながら走る姿はとてもかわいかった。女の子は増え鬼ではいつも最後まで逃げていた。それでも最後には捕まり、みんなで手をつないでその場に座り、次の遊びの相談をしたものだった。女の子の手はとてもやわらかくて暖かかった。ぼくはこんな子が妹に欲しいなと思っていた。その女の子に恋をしていたのだ。
その女の子の名前はだれも知らなかった。大人たちも誰一人としてどこのこなのかも知らなかった。だれもがきっとどこかの知り合いの子が遊びに来ているのだろうと思っていた。女の子はいつも昼の3時ごろ現れて、夕暮れにはどこかへ帰っていくので、この集落の近くにすんでいるのだろうと思っていた。
ある日、ぼくはその女の子の家の場所を知るために、女の子の帰り道を気付かれないようそうっとつけて行った。女の子は村道を北の方へ歩いて行った。村道は北の杉林を抜けてダムに通じている。その村道はダムにさえぎられるようにして終わっている。女の子はやがて、ダムの上に通ずる急勾配の道を上がり始めた。村道はその勾配のあと、小さな空き地で終わっている。その辺りには家は一軒もないはずである。
このダムはぼくが4歳のとき造られた物だった。当時ここには小さな集落があって、村道でぼくの集落と結ばれていた。ダムの工事が始まると、集落の人たちは、ぼくの集落や、村のほかの集落に移り住んだ。そしてダムの完成とともに集落は水没した。
ぼくは女の子の家はきっとそのダムの向こうに水没していない地域があって、そこに住んでいるのだろうと思った。
しばらく女の子の後をつけていたが勾配も終わりに近づく手前で女の子は急に立ち止まった。そして後ろを向くそぶりを見せたが、振り向かずに歩き出した。ぼくはもしかして後をつけているのがばれたのかと思い、あわてて木陰に隠れた。女の子が歩き出し、しばらく後に、ぼくはそっと引き返した。
その時以降、女の子はぼくたちの前にはあらわれなかった。あの時の行為が女の子の気に障ったのか、それとも引越ししてしまったのか、この十数年心の片隅に気になっていた。
そして今年の夏、女の子の家を訪ねようと帰郷したのだった。
実家に着くと、もう夕方になっていたのでダムへは明日行って見ることにして、懐かしい匂いのする古びた実家に入った。久しぶりに家族と夕食を伴にして、いまだに木で炊いているタイル張りの風呂に入り、ウシガエルの声が遠くから響き聞こえる部屋で思い出のアルバムを見ながらいつしか寝てしまった。
翌日はとても天気の良い日だった。朝10時ごろ自動車でダムに向かった。昔と変わらぬ杉林を抜けると、草に覆われたダムに通じる坂道に出た。舗装されていないワダチのできた道を、ススキの葉で白い車体にかすり傷がつかないように、ゆっくりと上がり、ダムの端にある空き地に出た。時々釣り客が訪れるのだろうか、釣り具の空のパッケージが2,3個落ちていたが、この日、ここに訪れているのはぼくだけのようで、ダム湖はひっそりと静まりかえっていた。その緑ににごった湖面には落ち葉が沢山浮いていて、時々、魚のはねる音が聞こえてきた。
ダムの周辺を見渡したが、ダムの周りには道は一本も無く、家も無い。あの女の子の家も見当たらなかった。
あれは単なる記憶の勘違いだったのだろうか、それとも女の子と家族は引越ししてしまい、家も朽ち果ててしまったのか。たしかに水没する十数年前までは人々の会話の声が響いていたであろうこの山間のダム湖に、寂しい感情を抱きながら、しばらく湖面に映る景色を見渡していた。
やがて帰ろうと自動車の方向に向かった時、いつのまに来たのか、ダム沿いのフェンスに両手をかけて湖を眺めている老人がいた。老人は、白いあごひげを喉元まで伸ばし、鳥打帽をかぶっていて、農作業用の服を着ていた。老人の隣にはさびだらけの黒い自転車が止まっていた。
ぼくは老人に声を掛けて見た。
「ここにあった集落に住んでいた人ですか?」
老人は微笑んだ。そしてしばらく会話が続いた。
「そうじゃよ。昔のことを懐かしんでるのだよ。」
「ぼくもなんですよ。この近くに友達がいたんです。」
「ほほう、下の集落の人かのう?」
「そうです、それでこのダムの近くに住んでいる友達を訪ねてきたのです。」
「それは赤い服を着ていた幼い女の子じゃな」
ぼくは老人がなぜ、すぐにその女の子のことが分かったのか不思議に思いながらも話を続けた。
「その女の子のことを知っているのですか?」
「あの子はわしの集落でも人気者であっての、いつもみんなを幸せな気分にしてくれたのじゃ。しかしだれもその子がどこの子か知らなかった。」
「その子はいつも赤い服を....」
「そうじゃよ。この集落には昔からいたのじゃよ。わしが子供のときも。そしてわしの息子も、孫もその子と遊んでたのじゃよ。」
「ええ?」
「そして集落が水没することになっての、みんなあの子のことを気にしておった。ある日、その子が現れたとき、その子にわしらは言ったのじゃ「ここはもうすぐ水没するからどこかへお行き」と、その子はとても寂しそうな表情をしておってのう、それでもニコと笑ってどこかへ行ってしまった。それ以降、その子を見た者はいなかったのじゃ。そうか、その後、おまえさんの集落に行ったのかい。」
老人の言っていることがよくは理解できなかったが、真面目な表情で話す老人の顔はでたらめなことを言っているようには思えなかった。
「ぼくの集落にも女の子は来たのだけど、それが、」
「よかった、わしはこれで安心じゃ。あの子の居場所があってよかった」
「それが、今はもういないんです。もしかしてぼくのために....」
ぼくはうつむきながら視線を湖に移した。
その時湖から心地よいそよ風が吹いてきた。そして風が耳元をかすめためた瞬間”キーン”という金属音が鳴った。
ぼくはその音にまゆをしかめながら老人のほうを見た。
しかしそこには老人の姿は無かった。辺りにも老人の姿は無く、老人のいた場所には水浸しの、さびつき朽ち果てた自転車だけが横たわっていた。
ぼくはその瞬間、子供のときに大人たちから聞いた噂話を思い出した。
それは、集落が水没した後のこと。
他の地域に移り住んだ人たちの中には、その地域に馴染めず、また、故郷のことが忘れられず、ダムに投身自殺した老人が何人かいたというものだった。自殺の目撃者はいたのだが、死体は一人も上がることが無かったと言う。
不思議な女の子と老人。
このダムは暖かな家族的な集落を失わせただけでなく、ほかにもとても大事な物を失わせたように思えた。それはここの集落の出身者だけの物でなく、ぼくたちや、この村の人たちにとっても大事な物だったのだろう。
ぼくは湖のさわやかな風に背を押されるように自動車に向かった。そして自動車に乗ろうとドアに手をかけ、湖を振り返って見た。その時、髪の毛を激しくたなびかせるほどの強い風が吹き、湖面全体に水の波紋が広がった。そして、その波紋の広がる湖面に一瞬、集落が見えた。その集落の道端には、あの女の子と男の子数人が仲良く遊んでいる様子が見えた。
湖面の波紋が広がり終わると、そこには緑色ににごった湖面が広がっているだけだった。
あの老人も子供の頃に帰ってその中にいたのだろうか。
ぼくは自動車に乗るとダムから遠ざかった。
ここはもはやぼくの来る場所ではないのだろう。
しかし、もしもこの過去の記憶に束縛されながら、やがて来る人生の終焉を迎えた時、ぼくも、あの女の子と遊ぶ輪の中に入れるのだろうか。否、都会の生活でいずれ忘れてしまうだろう。
やがてぼくの乗った白い自動車は舗装された道に出た。そしてぼくは過去の思い出を振り切るようにアクセルを深く踏み加速させた。にぎやかなざわめきの都会に戻るめに。
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